以前、ある企業のIR担当者と話をしていた時に、「アナリストとの面談で、『この決算結果、私のモデルでバッチリ当てましたよ』と自慢げに言われるとものすごく白けるんですよね」と言われたことがあります。企業の日常の活動は、大小様々な施策や決断の積み重ねで、そのような細かなそして時には大胆な実行の集積結果としての決算数字に対して、Excel上での加減乗除や近似数値のモデルでの「的中」を自慢されても、企業活動の現状を丁寧に説明しようとする意気込みをくじかれてしまうということなのではないかと、私なりに解釈しました。
オードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」は、バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」を原作にしたミュージカルです。(ミュージカル演劇を映画化したものです)貧しい下層階級の花売り娘イライザのひどい下町なまりを言語学の権威ヒギンズ氏が、上流階級の言葉に矯正すると、言葉と身のこなしが変わっただけで、イライザに対する周りの扱いも貴婦人に対して接するようになるという喜劇です。原作は、バーナード・ショーがイギリス階級社会に対する皮肉をこめて戯曲にしたものです。
そして、この「ピグマリオン」とは、ギリシャ神話の中の一つの物語から採られたものです。ピグマリオンが理想とする女性を彫刻するうちに、その女性(彫像)に恋をしてしまうというお話です。
戯曲「ピグマリオン」の中で、堅物のヒギンズ氏は自分が創り出した作品である、外見レディのイライザを好きになってしまいますが、最後に手ひどく振られてしまいます。映画「マイ・フェア・レディ」では最後にイライザはヒギンズの基に戻ってくるという映画らしいハッピーエンドに改変されてはいるのですが。
「ピグマリオン症」という言葉を私が初めて眼にしたのは、高橋康教授の著書「古典場から量子場への道」という本の中で、数学的モデルと現実の物理的対象をごっちゃにする「病気」として紹介されていた一節でした。自然界の事象を研究する物理や理論化学の分野では、数学的抽象化によってモデルを打ち立てるのは、研究の中核と言っていいと思います。しかし、そのモデルがうまく機能すればするほど、捨象された現実や近似化の前提条件を忘れてしまいがちです。このこと戒める言葉として「ピグマリオン症」という一種の病気と例えられました。
我々、企業の評価を行うアナリストは、「モデル化」を日常の業務として行います。企業業績の将来予測を行う上で、様々な事象を単純な式に置き換えてExcelシートの上に射影します。このモデル化という作業が重要なのは、それによって、無限とも言える細かな企業活動の中から、その事業・企業の本質を抽出する事を目的としているからです。我々企業分析を生業とするものであれば、このモデル化・抽象化の重要性を認識しない者はいないでしょう。
ところが、精緻なモデルを完成させると、いつの間にか、モデルこそが本質で、なにがしかの真理を体現しているものだという考えに無意識のうちに囚われてしまいます。そのモデル化のプロセスの中で、苦労して集めたデータを緻密な分析で壮大なモデルを組み立てた場合は、まさに精魂こめたピグマリオンの彫刻の努力と相似な気持ちになります。企業活動が日々の取引の集合体である事を忘れて、モデルを実体のように意識し始めるという訳です。
これは、財務モデルだけではなく、その企業の戦略や優位性も、既存のフレームワークの中に当てはめて一旦理解してしまうとその認識を壊す事が心理的に難しくなってしまいます。これも一種のモデル化で、モデルが実体となって顕現してしまうのです。
我々自身は、長期投資の基本として、投資先・投資候補の企業の方には、店舗見学や工場見学、社外取締役など広範囲な方々との面談などをお願いするようにしています。自分自身で創り出したフレームワークを実体だと考えてしまう危険性を犯さないためです。本物の「実体」(なんだか変な言葉ですが)によって我々が持っている彫像の確認や場合によっては破壊を行うために、現場に足を運び様々人たちのお話をお伺いするという事を大事にしています。
物事の本質を見るためにはモデルやフレームワークが必要です。一方、ピグマリオンが彫像に惚れてしまったように、我々も容易に自分たちが創り出した財務モデルや企業像に惚れ込んでしまいがちです。一つの企業を深く調査し、詳細に知れば知るほど、彫像を本物だと考える危険性が高まります。このような深いリサーチには、ピグマリオン症を患うという危険性がつきまとう事を意識しておかなければならないということのようです。